ポーランド日記

ワルシャワに来ました。

28歳、「年相応」ということについて考える

 

同年代の友人と話していると、彼らが見事に、年相応になっていくので驚く。それは、28歳の自分だったら、こんな風になっているかもしれない、というような子どものころ夢見ていた何かに近いような。そりゃ結婚したり子供を産んだりすれば、当然なのかもしれない。あるいは誰かは結婚する相手のいないことを嘆いたり、誰かは周りからの結婚への圧力に対して焦りを感じたり、そういう話題や、話し方すら、どこかで聞いたことがあるような気がしていたら親戚のおばさん達のような、テレビドラマの女優のような口ぶりで話すので、みんな凄い、本当に28歳を28歳らしくこなしている、としみじみ感心してしまう。

そういう話題について、どうしてもすりガラスの向こう側のことのように思えてしまうのは現実逃避だろうか。せっかくアラサーというホットな年齢にさしかかったのに、私は虚けのように他のことを考えている、ような気もするし何にも考えていないような気もする。私は一体何を考えているのだろう。と考えてみたら、自分がくだらないことにしか興味がないので驚く。たぶん10年以上脳内が進歩していない。読んだ本とか、見たアニメとかだらけた生活とか、残念ながらくだらないと言わざるをえない事柄ばかり考えている。もし結婚したら、もし子供を産んだら、私も「どこかでこんな人見たことあるよ!」という話しぶりで、年相応の話ができるようになるだろうか。将来について考えないわけではないけど、うっすらと、しばらくは海外で生活するんだろうな、ぐらいしか思い描いていない。そのうち結婚するかもしれないし、相手によってはどこか外国に住むことになるかもしれないし、日本に戻ることになるかもしれない。そういう可能性は考えたりもするけれど、やはり自分は圏外にいてあまり関係がないな、という感じがしてならない。したいことをしている気もするし、流されているような気もする。

 

人はどうやって「おばさん」「おじさん」になるのだろう。もちろん、年を取れば身体や皮膚は老化していく。細胞に艶も張りもなくなっていく。そういう肉体的なことではなくて、性格的に、自分の認識として、どのようにして老化していくのだろう。どのタイミングで「私はおばさんだ」と思えばいいのだろう。「年相応」を繰り返していけば、ちゃんとおばさんになれるのだろうか。

ある人々はきっと、そこに用意されている「年相応」のテンプレに自分を当てはめていくように、メディアや周りによって造られた鋳型にはまるように、自分自身の形や認識を変えていく、あるいはそれを目指していく、ように思う。アラサーになったから結婚について悩み、子どもを産んだからかわいいベビーグッズやママ友について考え、すこしでもいい生活のために資金について考えを巡らせる。

どう考えても自分の精神レベルが中2ぐらいで止まっていてそこから先に進めない。当然のようにわがままで、自分の好きなことしかしたくないし、しない。好きなことをするために、したくないことをしないために、私は努力を惜しまない。一生だらけて生活したい。

しかし、ずっと「年相応」という言葉を使ってきたけど、私は「年相応」が何なのかよくわからない。なんとなくイメージはあるけど、それがだれかの言う「年相応」と同じとは限らない。単なる私の幻想なのかもしれない。
佐野洋子さんの本に出てきた、

 

  いったいいくつになったら大人になるのだろう。混迷は9歳の時よりより複雑で底が深くなるばかりだった。人間は少しも利口になどならないのだ。そしてうすうす気が付き始めていた。利口な奴は生れた時から利口なのだ。馬鹿は生れつき馬鹿で、年をとって馬鹿が治るわけではないのだ。馬鹿は、利口な奴が経験しない馬鹿を限りなく重ねてゆくのだ。そして思ったものだ。馬鹿を生きる方が面白いかもしれぬなどと。

                     「神も仏もありませぬ」佐野洋子

 

私は明らかに馬鹿なので、この言葉にとても救われたのだけど、一生馬鹿な自分と付き合わなければならないという暗澹たる気持ちと、そうだまぁ面白いからいっか!という気持ちが綯い交ぜになって私の中にあるのです。